【日記】淡路国生みマラソンレポート

淡路国生みマラソン 2016

コイデです。

今をさること数ヶ月前。季節の移り変わりを感じ始めた2016年10月の頭に、私たちは淡路島で行われた「淡路国生みマラソン全国大会」に参加していました。

淡路国生みマラソン 2016

時々行われる、原田店長のマラソン企画の一環で、過去には京都マラソンや、お店の開店前の「早朝トレイルラン」(山を走って登る競技)などがありました。今回店長はハーフマラソンの部に挑戦。

他の参加者として、blueoverとWONDER BAGGAGEのデザイナ2人に、事務所の営業でもありblogも書いてもらっているKJもあわせて、結局、事務所総出で参加となり、社内行事という名のお祭りごとになります。

わたくしコイデは、数年前にヘルがニアってしまい、医者からの「痩せるまで走るな」勧告が出たきり、なぜだかわからないのですが、不思議と痩せられていないので、残念ながら不参加です。なので、カメラマンとしてみんなについて行くことになりました。

blueoverのランニングモデル

自分たちの作っているblueoverの中でも、ランニングに特化したモデルがあります。今回は、全員そのモデルを履いて出場。

淡路国生みマラソン 2016

特別仕様で、かかとにイニシャルを刺繍。写真は原田店長の「H」

スニーカーブランドとして在るblueoverにとって、こうした走る道具としての靴の機能の追求は必須です。走る、歩くという機能に特化した道具の姿は、野生動物の美しさのような、洗練された姿になっていくと思います。

デザイナは、走歴の長いランナーとともに、自身も走りながらそうした「道具」としての魅力にブラッシュアップを加えていっています。しかし、道具としての魅力は、たっぷりと私にも語れますが「走ることの楽しさ」ということとなると、ピンと来ていません。

なので、走れない私が走ることに関してなにかを言っても説得力がなく、原田店長からその魅力を聞き取ろうとしますが、本人は1日前になるとマリッジブルーならぬ、毎回マラソンブルーに落ち込んでいるので、まるで楽しそうと思えません。

淡路国生みマラソン 2016

とはいえなぜか、当日となると「今日はいいタイムが出る気がする」という大言壮語を吐く原田店長を横目に私は、果たしてマラソンとは楽しいものなのか、走るということの魅力はなんなのかと、なんとも今は掴み所のないものとして考えながら、淡路島への移動の車に乗り込んだのを覚えています。

淡路国生みマラソン会場

そんな「走ることの楽しさ」を実感できていない私なので、会場に到着して、時間が経つにつれ集まって来る人の多さ、大会の規模の大きさに驚きました。

マラソンという文化が、決してアクセスのいいとは言えないこの場所に、ここまで人を集め、人を動かすものになっているとは、失礼ながらちょっと信じられない心持ちでした。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

私自身は、mikeyと出会いblueoverに惚れ込みここにスタッフとしています。

街歩きで、どこまで歩いても疲れないその履き心地と、足に合わせて変化して行くアッパーの愛らしさに虜となったわけなので、やはり走るという特化した部分の魅力を見ることができない、自分自身の欠落を感じています。

参加する彼らは各々、さまざまなメーカーのスニーカーを履いて出場しています。彼らはどうしてその靴を選んだのか。その靴にはどういう機能があるのか。自分たちの靴と比べてどうなのだろうか。そんなふうに、辺りを見渡すしかできません。

淡路国生みマラソン 2016

人が多く集まる場所にいるだけで、若干気持ちが高揚していくのを感じます。もしかしたら、そうした空気に飲まれて、今回は走る楽しさを見つけられるのではないか、と密かに期待しながら、メンバーみんながスタート地点に集まる人の群れに飲まれていくのを見送りました。

走る楽しさ

会場は地元の小学校。校庭は競技場が一個そのまま入るような大きさで、スタート地点とゴール地点を兼ねています。

コースは距離によって分かれており、ハーフのコースは瀬戸内海沿いを走る箇所もあり、イラストで描かれたその順路を見るだけでも眺望が浮かび、町興しとして理にかなっていると思えました。なにより、参加賞で玉ねぎがもらえるというのがなんとも良いです。

淡路国生みマラソン 2016

スタートの号砲が鳴らされて、集まった人々が地元中学生が奏でる吹奏楽をBGMに走り出していきます。自分はそそくさとゴール手前、少し広がった道路脇に陣取り、戻ってくるメンバーをカメラで狙おうとします。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

1時間もすると、最初のランナーが戻ってきます。招待選手なども居り、ハーフの工程をその時間で走りきるランナーの、躍動する筋肉やランニングフォームの素晴らしさは、なるほど洗練された、無駄のない美しさを感じます。

着地するたびに浮かび上がる筋肉と、屈曲する足元のスニーカー。道具と肉体が無駄なく機能するその関係性を見ながら「走るための靴」とはどんなものだろう、と走れない身体で考えます。

ゴール

さらに数十分経つと、参加していたメンバーも次々戻ってきました。

最初に戻ってきた営業のKJは、笑顔で手を挙げてくれましたが、口の端は歪んで吐き出される呼気は激しいものです。あとに次々と通り過ぎるメンバーは、一応の笑顔を作るのに一生懸命で、その表情は一様に苦しそうなものでした。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

さらに続く参加者の中には、脇腹を押さえ、顔をしかめて時折足を止める方もいらっしゃいます。やはり自分の中にある「なぜそこまでして走るのか」という疑問が、頭をもたげます。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

原田店長をゴール地点で待ち構え、スタッフ全員がゴールします。ただひたすら「しんどかった」と口にするメンバーたち。けれども息があがり苦しそうに表情をしかめて語り合う彼らから、達成感を感じます。

なるほど一つの苦行をやりきるということの達成感。それは私にもわかります。それを共有する、共闘感。それもわかります。

人それぞれ走る理由というのは違うのでしょうが、たぶんそうしたカタルシスを求めるというのは、とても頷けます。けれど、それはなんだかわかり易いお手本のような答えで、もっと根深い「楽しさ」が走ることにはあるのではないか、と疑り深い私は考えずにはいられません。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

校舎の脇で用意していたお弁当を食べながら「どこそこのところでもう諦めかけた」や「あの最後の坂はしんどかった」など語り合い、帰りの車内では、各々のランニングモデルを使った感想を話し合ったりと、疲労を感じさせないように行きの車内よりも賑々しくなります。

淡路国生みマラソン 2016

私はそこで、疎外感を感じるよりも、うらやましくなりました。走る、苦しさの先にあるその境地に、自分は立てていない。だからこそ「走る楽しさ」をうらやましく思いました。

自分がmikeyを履いて歩き続け、見知らぬ土地を踏破して楽しむように、ただ暮らしているだけでは体験できない境地。

「旅」のようなものが走る行為にはあるのではないか、とその時に少し思いました。

淡路国生みマラソン 2016

淡路国生みマラソン 2016

旅の相棒としてのランニングスニーカーは、なるほど、ただのスニーカーとは違う愛着を持って迎えられるものなのだろう。機能が抜群に優れているか、というところとは違う、もう一つの相棒としてのスニーカーの価値。

そして、スニーカーブランドだからという以上に「ランニングモデル」というプロダクトを作る意義は、もしかしたらそうしたところにも、あるものなのかもしれない。

と長時間の車移動で痛む腰をさすりながら「走る楽しさ」を自分なりに納得できた出来事でした。

(コイデ)

 
 

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